さん」
「ぎゃあ・・・っ!!」

耳元で突然囁かれた声に反射的に肌が粟立つ。肩にそっと彼の右手が置かれた瞬間、ぞわりとした感覚が体中を駆け巡り、手に持っていた竹箒も思わず取り落としてしまった。

「こんにちは。今日も相変わらずお美しいですね。箒を手に裏庭を清掃するその姿すらも気高く輝いて見えます」
「相変わらず鬱陶しいですね利吉さん、ちょっと早く離れてくれますか!」

強引に身体を捩って彼を振り払うとともに、その勢いを利用して肘鉄でも一発打ち込んでやろうかと思ったのに、私の意図などまるでお見通しだとでもいうように難なくかわされた。流石、フリーの売れっ子プロ忍者と言われているだけあるようだけれど、私自身はどこか悔しくて苛立たしい。
毎度のことなのでもはや気に留めなくなってはいるけれども、どうしてこう歯の浮くような台詞を平気で言えるのだろうか。先ほどよりもさらに鳥肌が酷くなっている自分に気付く。ぶつけられる賛美の言葉は私にとってみればまるで言葉の暴力だ。

「こんなに頻繁に忍術学園にいらっしゃるなんて、お仕事のほうは相当お暇なようですね」

薄っぺらな笑顔を貼り付けたうえで嫌みったらしく告げたにもかかわらず、平然とした顔で目の前のこの人物は「貴女に会いにくるために早く片付けているんですよ」などと言うものだから、私の神経は逆撫でられる一方だ。そのうえ私と言葉を交わしながらもさり気なく手を取ろうとしてくるものだから、侮蔑の意味も込めて容赦なく振り払う。振り払われたその掌を目の高さでぶらぶらと揺さぶったあと、仕方ないとでも言いたげなように彼はわざとらしく息をついた。

「私にとってはいい迷惑なんです。今だってほら、貴方のおかげで掃除をする手が止まってしまいました。私がこの学園の事務員として雇われている以上、お仕事を邪魔するようならそれなりの手段をとりますよ」
「それは私のほうに非がありますね。以後気をつけます」
「そう思うのなら、さっさと私の目の前から立ち去っていただけないでしょうか?」

わざとらしいまでの丁寧語でそう頼んでみるも。

さんのお仕事に差支えがないようでしたら良いのでしょう?その辺りでしばらく待たせていただきます」

ああ言えばこう言う、厄介な男だ。この不毛なやり取りに疲れきった私は半ば心を諦めて、無言で先ほど落としてしまった箒を拾う。彼のことを極力視界に入れないようにしつつ、掃除を続けた。


ザッ、ザッ、と箒が地面を擦る音だけが暫く響く。溜まった枯れ枝やら落ち葉やらを一箇所に集めたあと、袋に詰め込んで処分する作業が終わったころ、無視し続けててきたその存在が再び私の名を呼んだ。

さん」
「・・・何ですか」

もはや返事をするのも面倒臭いと思いつつも、最低限の良識が私を押し留めた。

「お仕事は終わりましたか」
「残念ながらご覧の通り、ひと段落です」
「でしたら暫し私とゆっくりお話でも致しませんか。先日仕事先で見つけた、美味しい茶菓子をお持ちしたんです」

そう言ってにこやかに笑う。一瞬心がぐらりと揺れた。ひと仕事のあとの休憩に預かりたいのは事実だし、悔しいけれど茶菓子に罪はない・・・!
そうして結局、不甲斐なくも茶菓子の誘惑に屈した私は、程なくして作業用に宛がわれている事務室で彼と2人、のんびりと茶など啜る羽目となっている。事務机の上に、先ほど掃除に出る前には無かったはずの未処理の書類が積み上げられているのを確認した私の気持ちは、さらに下降した。

「先ほども言ったんですけれどもう一度言いますね。随分とお暇なんですね、利吉さん。今後はそのお暇を、実家でお一人淋しく暮らすお母様のために使ってみれば如何です?」
「釣れないですね。私にとってより大事なのは母よりもさん、貴女ですのに」
「そんな親不孝な台詞、お父上の山田先生が聞いたら泣きますよ」
さんが父上に黙っていてさえくだされば問題なんて無いではないですか」

何やら眩暈すら起きそうになるこのやり取りに、折角の茶菓子の味もわからなくなりそうだ。何が悲しくてこんなことをしているんだろう、などと思いながら私が遠い目をしていたとき、吉野先生から預かった書類を届けにきたらしい小松田くんがふらりと現れた。どうやら利吉さんは小松田くんを苦手にしているらしく、しきりに鬱陶しそうな目を彼に向けるのを見て、私は内心ほくそ笑んだ。小松田君が救世主に見えたのなんて初めてかもしれない!(ただでさえ積み上げられていた書類がまた増えてしまったけれど。)なんとか彼をこの場に引き留めようとしたかったのだけれど、「僕、学園長に呼ばれていますから〜」などと言って、私の心中など一分たりとも解せぬ様子で去っていく小松田君の背中を、ただ薄笑いで見送るしかなかった。学園長、どうせなら私に用事を頼んでくれたらよかったのに。


  * * *


「山田先生・・・ッ!息子さん、いい加減何とかなりませんか!!」

あのあと、大した話をしたわけでもないのに、「ではまた来ます」と言って満足そうな笑顔で帰っていった(もちろん出門票はキッチリ書いて小松田くんに渡していた、)利吉さんをゲンナリしながら見送ったその足で、彼の父であり、この忍術学園の教師でもある山田先生の元を訪ねた。

「いやあー、さん、毎度毎度申し訳ない。しかしアレは私が言って聞くようなタマじゃなくてなあ〜!」
「笑い事じゃありませんよ・・・!」

ハハハ、と頭に手を当てて笑う山田先生に罪を擦り付けるのは本来お門違いだということなんて解っているつもりだけれど、もはや私が縋るには彼の父親である山田先生しかいなかったのだ。しかしその希望も呆気なく潰えたみたいだ。笑い顔の山田先生とは対照的に、若干泣きたくすらなる私。山田先生に罪は無いけど、私が一体何をしたというのだ。

「いつもいつも仕事の最中にあんなふうにちょっかいを出しに来られては、私のほうも仕事になりません!」
「アレも不器用な奴だからなあ・・・」

なんて言って苦笑いを零す山田先生にこれ以上の協力を求めるのは無理だと判断して、落胆した私は短く「失礼します」とだけ挨拶して部屋を出た。
中庭に面した廊下に出ればいつしか日は傾いていた。事務室へと戻りながら、これからこなさければならない事務作業が残っていることを思い出すと、さらにゲンナリした。

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浅葱の柄染